関妙山善性寺は、長享元年(1487)八月、尊重院日嘉上人によって開創されたと伝えられますが、その草創は日蓮聖人ご在世のころにまでさかのぼります。
日蓮聖人は建長五年(1253)に「南無妙法蓮華経」と唱えて立教開宗し、鎌倉に出て松葉が谷に小庵を構え、伝道活動を展開しました。
激しい迫害の中で伝道一途に徹した日蓮聖人は、その疲れた体を塩原の湯(群馬県)で癒し、再び伝道活動を続けたといわれています。
日蓮聖人が塩原へ向かう途中、しばしば地下の武士・関氏(『善性寺雑記』参照)の邸をたずねて宿としたと伝えられ、そのおり難産に苦しむ関善左衛門の妻の願いに応え、杓子に曼荼羅を書いて与えたところ、無事に男子を出産しました(『善性寺と杓子のお曼荼羅』参照)。
日蓮聖人の霊験あらたかな威徳にふれ、深く帰依した善左衛門は、その宅地内に小宇を建てて曼荼羅の記された杓子と日蓮聖人像を安置し、常に誦経唱題を怠らなかったといいます(『〜雑記』参照)。
この小宇が善性寺の濫觴です。
また日蓮聖人が宿として、周辺の村人たちに法華経の教えを説いた関氏(善左衛門の一族)の邸内に、日蓮上人の遺徳をしのんで一字を建て、ご自作の御影を安置しました。
これがのちの感応寺(現・天王寺)です。その後、感応寺は中老僧・日源上人によって開創され、さらに文明年中の初期(1469〜74)、関氏の一族である日耀上人によって中興されました。日嘉上人は中興初祖・日耀上人の法弟で感応寺の二世となるとともに、善左衛門宅地内の小宇を一寺として建立し、関善左衛門の名に因んで関妙山善性寺と号しました。
感応寺、善性寺の開創に外護を寄せた関小次郎長耀入道道閑(『〜雑記』参照)は、両山の開基と称されています。
俗に戦国時代とよばれる室町時代の中期、九代将軍・足利義尚のころのことです。
開創当初の善性寺の周辺は村人たちも少なく、善性寺もごく小さな寺院で現在地より、やや東方に位置していたと伝えられています。
天正十年(1582)六月、当時の善左衛門家当主の伯父にあたる日義上人が、田畑を寄進するとともに善性寺の護持にあったたことから、のちに第五世に加歴されますが、この日義上人によって寄進された田畑が、善性寺最初の寺領地となったと『善性寺伝法系譜』に記されています。
天正十八年(1590)、小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東八州の領主として江戸へ入部し、慶長八年(1603)征夷大将軍となって江戸幕府をひらきました。
元和元年(1615)、幕府は宗教統制策の一つとして「諸宗諸本山諸法度」を定め、善性寺は感応寺と本末関係を結びます。
このころ、日蓮宗内では身延山久遠寺を中心とする「受不施」と、池上本門寺を中心とする「不受不施」に分かれて、激しい争論が行われていました。善性寺の本寺である感応寺は、不受不施の指導的寺院の一つであり、とうぜん善性寺も不受不施義を信奉していました。
不受不施とは、法華経の信者以外に施しをせず、また施しを受けぬというもので、これは国主や領主に対しても厳しく守られました。
釈尊の前では人間はすべて平等であり、釈尊の絶対唯一の正法である法華経の宣揚弘通こそが、身命を賭すべき道であると説くものです。
政治権力との妥協を一切否定する不受不施の信仰は、当時の幕藩体制を根底から脅かすもので、幕府と密着した受不施との激しい対決は避けるわけにはいかず、寛永七年(1630)、身延・池上の対論、いわゆる「身池対論」が行われました。
勝負は初めからついていたといえるこの対論によって不受不施は敗れ、これを期に池上本門寺とその末派寺院は受不施に属しますが、感応寺、碑文谷法華寺(現・円融寺、目黒区)、小湊誕生寺(千葉県)をはじめその末派寺院は、権力に屈することなく不受不施をつらぬきつづけました。善性寺もその一寺で、不受不施の一翼を担って尽力したのが、第八世・日教上人です。
寛永十七年(1640)、幕府は寺請制度を公布します。切支丹(キリスト教)禁圧にともなう、宗旨人別改めが重要な目的でしたが、この制度によって檀越関係が確立されました。寺請制度が近世仏教の庶民への布教に、大きな貢献を果たしたといっても過言ではありません。
寛文二年(1662)、甲府宰相・徳川綱重(三代将軍・家光の二男)の側室・お保良の方が、お付きの老女・お虎の勧めにしたがって第十世・日逕上人に帰依し、安産福子の祈祷を願い、 至誠を尽した日逕上人の祈祷によって、お保良の方は無事に男子を出産しました。これがのちに六代将軍・家宣となった徳川綱豊です。
この年、日逕上人は善性寺の諸堂宇を、低地のため水捌けの悪かった旧地から、音無川の清流が上野台地に沿って流れる幽水閑雅の現在地に移しました。
翌三年(1663)、再び懐妊したお保良の方は、故あって甲府藩士・越智与右衛門清重(『〜雑記』参照)に下賜され、十月に二男吉忠(のちの松平右近将監清武)を出産しますが、翌四年(1664)二月二十八日、病のため二十八歳で歿し、遺命によって善性寺へ葬られました。法名を専光院殿修観日妙大姉といいます。
寛文九年(1669)、幕府は不受不施寺院から「寺請証文」の保証資格を剥奪しました。「寺請」は当時における一種の戸籍制度で、住民の身分の正当性を寺院が保証する証明書にあたります。
その保証資格が剥奪されることは、檀徒家の人びとを無宿人にしてしまうわけで、檀徒家の寺院からの離脱を計ったものでした。
こういったたび重なる幕府の圧迫によって、不受不施寺院は次第に受不施、いわゆる身延派のもとに包含されていきました。
感応寺、法華寺、誕生寺をはじめ善性寺を含む末派寺院は、あくまでも不受不施義を信奉しつづけましたが、寛文九年(1669)第十一世・日逞上人の示寂後、善性寺は十二年にわたって無住寺となります。
天和二年(1682)、お保良の方に信仰を勧め、自らも善性寺に帰依していた老女・お虎が荒廃した善性寺の境内に小庵を結び、剃髪して日安尼と名のり寺容の護持につとめました。日安尼は松平氏の一族であったと伝えられていますが、堂宇を修復するとともに、仏像をはじめ散逸した諸道具まで買い集めて寄進したといわれ、その功によって第十二世に加歴されています。
元禄四年(一六九一)四月、幕府は、感応寺、法華寺、誕生寺を天台宗に改宗する命を下しました。誕生寺は日蓮聖人ゆかりの寺院として難を免れますが、感応寺、法華寺は強制的に改宗させられ、末派寺院である善性寺も感応寺と同刑の処置が下されました。
第十四世・日性上人は、宗祖日蓮聖人ゆかりの寺院であり、しかも聖人ご在世のころに草創いらい法灯をともしつづける善性寺を、旧来通り日蓮宗寺院として存続させるべく、檀信徒を結集して幕府に嘆願をくりかえしました。日性上人のあくなき嘆願はおよそ九年にわたってつづけられ、善性寺が日蓮宗寺院として認められ、身延山久遠寺の直末寺となったのは元禄十二年(1699)三月のことです。
身延山久遠寺もまた善性寺を由緒寺院として認め、「永聖跡客座席」の寺格をもって遇しました。
日蓮聖人ゆかりの旧刹として、参詣人があとを絶たなかったといわれるのも、このころ以降のことでしょう。
宝永元年(1704)、甲府宰相・綱豊が五代将軍・綱吉の養子となり、名を家宣と改め江戸城に入りました。六代将軍の地位が確定したわけです。
翌二年(1705)四月、家宣の母・お保良の方の菩提寺である善性寺は、武蔵国足立郡伊苅村(川口市)に「百十二石九合」の朱印寺領を賜わりますが、十月になってお保良の方の柩櫃は東叡山の霊屋へ移され、長昌院殿天岳台光大姉と改められました。東叡山領の年貢地であった善性寺の境内地が拝領地となったのはこのおりのことです。
このころ家宣の弟・清武が善性寺に隠棲し、家宣が狩の途中しばしば善性寺を訪れて清武と懇談したと『荒川区史』に記されていますが、その出典については不明です。
宝永四年(1707)、清武は松平の称号を許され館林藩主となり、はじめ出羽守と称しますがのちに右近将監と改めます。清武が越智家で生まれ育ったことから、俗に越智松平家とよばれ、『寛政重修諸家譜』では、清武を初祖と記しています。
宝永六年(1709)、家宣が六代将軍となり、機会あるごとに母が帰依した善性寺へ参詣に訪れたといい、そのおり山門前の音無川に架けられた橋を渡って来たことから、その橋を「将軍橋」とよぶようになったと伝えられています。館林藩主となった清武もまたこの橋を渡って、しばしば善性寺を訪れたと思われます。
宝永七年(1710)、善性寺に梵鐘が鋳造され鐘楼堂が建立されました。
一般に鐘楼堂の建立は寺運の隆盛を意味し、六代将軍・家宣や右近将監清武の外護によるとみてよいでしょう。
明治十年(1877)の『寺院明細簿』にはその記載はなく、安政二年(1855)、幕府が諸国寺院の梵鐘を集めて銃砲を作らせたおり、善性寺の梵鐘も収公されてしまったものと思われます。
正徳二年(1712)十月、将軍・家宣が歿し、遺命によって清武に二万石が加増され、五万四千石を領することになりました。
清武は幕府からの信頼も厚く、御領なども預けられますが、享保九年(1724)九月十六日に歿して善性寺に葬られました。
法名を本賢院殿養意日学大居士と号し、いらい善性寺を越智松平家代々の葬地と定めました。
越智松平家は陸奥(福島県)棚倉藩へ移され、再び館林藩に戻り六万一千石を領しますが、のち石見国(島根県)の浜田藩に移されます(『越智松平家と善性寺』参照)。
享保十六年(1731)九月二十七日、十四世・日性上人が示寂しました。天台宗への改宗の危機にあたって草創いらいの宗旨を護りぬいた傑僧で、善性寺ではその功を永代にまで伝えるため、中興と称しております。
寛延三年(1750)、幕府は身延山久遠寺の化主は飯高檀林の能化(現代の学長)を勤めた僧があたることと定めました。
飯高檀林は、俗に飯高三谷(中台谷、城下谷、松和田谷)を指し、善性寺は中台谷の法脈に属します。
この中台谷の法脈には、脱師法類と潮師法類(『〜雑記』参照)の両法類があり、たがいに競いあい、時には険悪な状態となることもありましたが、文化六年(1809九)、両法類より交互に善性寺の住職に出世し、檀越・越智松平家の裁可を得て身延山久遠寺へ願い出る仕来たりとなりました。
いらい善性寺は「出世寺」とよばれ、寺運はさらに隆昌していったと推定されます。
安永三年(1774)五月、善性寺第十八世として十二年間にわたって住職をつとめた日唱上人が、身延山久遠寺の法主として就任しますが、安永五年(1776)五月、不受不施義を信奉したとの理由から寺社奉行らと対論ののち入牢を命ぜられ、安永六年(1777)五月二十九日牢内で示寂し、身延山久遠寺の歴世から除歴されました。
このことから日唱上人は俗に「除歴日唱」とよばれています。江戸時代後期の不受不施法難といっても過言ではないでしょう。
文政八年(1825)、第二十二世・日住上人によって『寺社書上』が提出されました。『新編武蔵風土記稿』の善性寺の記述は、この書上によるものです。
文化・文政年中(1804〜29)は、江戸文化が最も花開いた時代といわれています。幕府経済の実質が庶民に集約されたことによるもので、善性寺と庶民のつながりが一層強まり、寺運はますます隆昌の一途を辿りました。
慶応四年(1868)、二百六十余年にわたった江戸幕府が崩壊し、明治新政府が樹立されると、神仏分離令が公布されて廃仏毀釈運動が広まり、各寺院は一様に荒廃していきました。
騒然とした時代の転換期にあって、檀徒家をまとめ寺門護持にあたったのが、第二十七世・日暎上人です。日暎上人は飯高檀林(347世)、松が崎檀林(295世)の能化を歴任してきた高僧で、『本末一派寺院明細帳』によると当時六十四歳の高齢に達していたことがわかります。
明治十年(1877)七月に善性寺から提出された『寺院明細簿』をみると、廃仏毀釈などによって極めて大きな痛手を受けた善性寺が、本堂の再建に着手するまで再興されていたことがわかります。この再建にあたったのが第二十八世・日爽上人です。
多くの檀信徒家の善性寺に寄せる厚い信仰と信施が、日暎上人・日爽上人を支えていたといってもよいでしょう。ここから善性寺の現代史が始まったわけです。
参考文献
『新編武蔵風土記稿』『武蔵通志』『武江年表』『江戸名所図会』『江戸砂子』『江戸町づくし稿』『望海毎談』『江戸幕府寺院本末帳集成』『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』『新撰東京名所図会』『大東京の史蹟と名所』『詳説江戸名所記』『谷中叢話』『下谷繁昌記』『荒川区史』『本末一派寺院明細帳』(都立公文書館所蔵)『寺院明細簿』(同館所蔵)