善性寺雑記


善性寺と深いゆかりをもつ関氏は、鎌倉時代のころから谷中を中心に周辺一帯を領し、耕作にあたっていた「豊島郡の関氏」(『姓氏家系大辞典』)のことです。

 

この関氏は感応寺(現・天王寺)の『寺社書上』によると「谷中村の地下の武士」と記されていますが、一般に「地下人」とは、宮中に仕える者以外の人のことで、農民を中心とした庶民を指しますが、「地下の武士」とはもとは武士であったが、今は広大な農耕地を所有する豪農の意味で、身分的にはのちの郷士と解釈すべきでしょう。

 

日蓮聖人の威徳にふれ、のちに善性寺となる小宇を宅地内に建てた関善左衛門もその一族と考えられます。代々の当主が善左衛門を名のったらしく、善性寺に最初の寺領を寄進して寺容の護持につとめた第五世・日義上人は、『伝法系譜』によると、「善左衛門伯父」と記されています。

 

なお、善性寺の開基を「関善左衛門」とする説もありますがこれは誤りで、感応寺とともに関小次郎長耀入道道閑が開基にあたりました。関氏一族のすべてが外護を寄せたことでしょう。

 

善性寺には、難産に苦しむ関善左衛門の妻の願いによって、日蓮聖人が曼荼羅を記された「杓子」が安置されていましたが、のちに感応寺に移されました。

 

幕府によって「諸宗諸本山諸法度」が定められ、善性寺が感応寺と本末関係を結んだ元和元年(1615)から、三代将軍・家光の外護によって感応寺が寺域を拡大した寛永年間(1624〜43)のことと思われます。

 

善性寺が不受不施法難によって荒廃し、これを憂えた日安尼(『〜歴史』参照)が堂宇の護持にあたったころ、霊験あらたかな「曼荼羅杓子」は再び善性寺に安置されたといわれています。

 

そののち、「杓子」は谷中瑞輪寺に移され現在に至っていますが、その理由については詳らかにされておりません。

道灌山聴虫
道灌山聴虫(どうかんやまむしきき)江戸名所図会

江戸時代のころ、日暮里の道灌山は眺望にめぐまれ、秋になると文人墨客たちが夜もすがらその清音に耳を傾けたと伝えられる「虫聞」の名所として、広く知られていました(『江戸名所図会』)

 

道灌山は、太田道灌がここに砦を築いたことから名づけられたといわれ、また善性寺の開基・関小次郎長耀入道道閑の屋敷あとであったともいわれていますが、後者の説の方が正しいようです。

 

「当時は関道閑と云ふものゝ屋敷跡なる由、北条安房守聞伝えありといふ。又谷中感応寺、及び根岸村善性寺は、関小次郎長耀入道道灌の開基にして、此人此辺を領せしなりと伝ふれば関道灌の居蹟なること明けし」大道寺友山『落穂集追加』

 

「彼の道灌坊が住し嶽を見やりて思ふ事有。世に此山を太田道灌の城山といふ。誤りたる哉。此山は此所の曾長道灌坊として法華修行の民なり」(望海毎談

 

この道灌山は、いまでいえば日暮里駅と田端駅の中間の西側の台地にあたります。今ではすっかり人家が立ち並んでいますが、『江戸名所図会』によると、北は飛鳥山に接していたといいます。

 

善性寺が開創されたころの関氏一族が広大な地域を所有し、相当な実力をもつ一族であったことがわかります。


甲府宰相・綱重の側室・お保良の方が、綱豊(六代将軍・家宣)を産み、翌寛文三年(1663)に、懐妊したまま家臣の越智与右衛門清重の妻として下賜されました。

 

『徳川実紀』等には「故あって」とのみ記されていますが、その内情は綱豊が誕生したころ、綱重は家光の妹・東福門院(後水尾天皇の女御)のすすめによって、関白左大臣・二条光平の娘を妻として迎えたばかりであったため、その遠慮によるもので、お保良の方と綱豊は国家老・新見備中守七右衛門に預けられていました。

 

綱重は一子・綱豊に会うとの口実のもとに、しばしば新見七右衛門の屋敷を訪れ、再びお保良の方が懐妊したことから、急拠、越智与右衛門の妻として下賜されたわけです。

 

お保良の方を迎えた与右衛門は、妻とはいえ主君の胤を宿している女性であり、別に一室を設けて丁重にもてなしました。妻とは名のみで、主君の愛妾を預けられた与右衛門の苦衷が察せられます。

 

お保良の方はこの越智家で吉忠(清武)を出産し、その翌年、28歳で歿しました。

 

吉忠(清武)は与右衛門が歿したのちその遺跡を継ぎ、宝永四年(1707)に松平の称号を許され、他の松平家との混同を避けるため、俗に越智松平家と称されました。

 


善性寺は「飯高三谷」の一つ、中台谷の法脈に属しますが、この中台谷は飯高檀林十二代の能化となった日耀上人が、竜眠庵という学寮を築いて指南にあたったことに始まります。

 

三谷は互いに競い、学僧の養成に励んだといわれ、谷指南の形式が定まり谷祖や指南頭を頂点とした谷ごととの学系が独立、固定化してそのまま法系となっていきました。

 

弟子は師の出た谷に必ず入寮するようになって、ある寺の住職はどの谷の出身者に限るという出世寺格が制定されるようになり、ここから「法類制度」が発生しました。

 

中台谷の祖・日耀上人の高足に日理上人がおり、日理上人の直弟子に日脱上人がいます。日脱上人は飯高十八世の能化より身延山久遠寺三十一世に雄飛し、中台谷出身者の身延進出への端緒を開いた高僧で、この日脱師の門葉を「脱師法類」と呼びます。

 

一方、「潮師法類」とは三十五歳で飯高五十二世の能化となり、のちに身延山久遠寺の三十六世の法灯を継いだ日潮上人の門葉を指します。

  

 

文化六年(1809)いらい、善性寺の住職はこの両法類から交互に出世する、いわゆる「出世寺」と定められました。


善性寺は「中西派一刀流」で知られる中西家代々の菩提寺で、境内に四世・忠兵衛子正の墓碑が現存しています。

 

中西派一刀流は小野忠方(小野派一刀流・五世)の高弟・中西忠太子定より起りました。なかでも三世・忠太子啓は名人として知られ、のちに「天真一刀流」をひらいた寺田五郎右衛門や白井亨などを育成し、将来を期待されましたが四十七歳で歿しました。四世・忠兵衛はその甥にあたります。

 

忠兵衛もまた名人の聞えが高く、浅利又七郎がその高弟で、「北辰一刀流」の千葉周作はその門弟にあたります。また忠兵衛の二男が、二世・浅利又七郎を継ぎ、「無刀流」の山岡鉄舟(鉄太郎)を育成しました。

 

忠兵衛の墓碑は空襲の業火を受けて傷みが激しく、碑文等を読みとることはできませんが、その台石に多くの名が刻され、男谷精一郎(信友)、浅利又七郎らの名がかすかに判読されます。当時を代表する第一級の剣客らが、忠兵衛の死をいたみ、その菩提を弔ったものでしょう。


上野戦争(出典:Wikipedia)
上野戦争(出典:Wikipedia)

 

 慶応四年(1868)、江戸開城に反対する旧幕臣によって彰義隊が結成されました。

 

江戸市中の巡回警衛、徳川慶喜の護衛と称して維新政府と対立しました。脱走した兵などもありましたが2,000余名が参加し、上野の寛永寺を屯所としていましたが、その一部が善性寺に集合し、軍容を整えて上野の山へ進軍したと伝えられています。

 

 

5月15日、維新政府軍は大村益次郎の指揮によって彰義隊を攻撃し、彰義隊は壊滅してしまいました。

 

この戦いを「上野戦争」といいますが、広田栄氏の『松平家家歴調書』によると「明治元年5月15日、上野彰義隊参加の内、黒谷衫一郎以下九人戦死す」と記され、越智松平家の家臣からも彰義隊に参加した者があったことがわかります。