館林藩(越智松平家)が浜田藩へ移封されたおり、浜田藩は棚倉藩へ、棚倉藩は館林藩へ移封されている。実収高では越智松平家が最も貧乏籤をひいた形で、長州藩(萩藩)への備えにあてたとの説もあるが、その理由はつまびらかではない。
善性寺の大檀越であった松平家は、六代将軍・家宣(綱豊)の実弟・右近将監清武を初祖とします。
故あって母(『善性寺の歴史』参照)が清武を身籠もったまま、父(甲府宰相・綱重)の家臣・越智与右衛門清重に与えられたことから、清武は越智家で生まれ育ち、はじめ越智姓を名のっていましたが、宝永四年(1707)に松平姓を与えられました。
これが越智松平家です。
この年、清武は上野国(群馬県)館林二万四千石の藩主となります。
宝永六年(1709)、兄・家宣が六代将軍位を継承しますが、家宣は正徳二年(1712)に歿し、その遺命によって清武は五万四千石を領することになりました。清武が右近将監と名のるのはこのおりのことです。
享保九年(1724)清武が歿して当山に葬られました。清武は母が生前深く帰依し、しかもその葬地である当山を、当初から代代の菩提寺と定めていたのでしょう。
いらい家臣らの多くも当山を菩提寺とし、歴代藩主らの墓碑はもちろん、多くの家臣らの墓碑が残されています。
三代・武元の代の享保十三年(1728)陸奥(福島県)棚倉藩五万四千石へ移封されますが、延享三年(1746)、再び館林藩にもどります。
明和六年(1769)武元は老中の政務を賞されて七千石を加えられ、六万一千石を領することになりました。
五代・武厚は奏者番、寺社奉行を兼任し、十一代将軍・家斉の諱の一字を賜り、斉厚と改めています。
天保七年(1836)、斉厚は石見国(島根県)浜田藩へ転封されます。なぜ越智松平家が収穫高の最も少ない地へ転封されたのかは不明です。
斉厚は学問を奨励するとともに、治水工事や水源地の植林などに尽力し、入封当時の飢饉にあたっては、その救済に努め、七代・武成がその財政再建に努めますが、成功を見るには至りませんでした。
八代・武聰は養子で、水戸斉昭の十男にあたり、長州征伐の際は幕府軍の先頭に立って戦いますが、慶応二年(1866)の再征では逆に長州軍に攻め込まれ、自ら城に火を放って飛地領・美作(岡山県)鶴田へ逃れました。
これがいわゆる鶴田藩です。
家老の赦罪賜死で藩は存続し、六万一千石に復しますが、明治四年(1871)廃藩となり、九代・武修が子爵に列しています。