杓子のお祖師様の善性寺として、このお寺は、世に知られていますが、しかし、その由来を尋ねますと、諸説紛々として、正確なことは分かりません。今日では、この杓子のお祖師様は、この伝説とは関係の無い、谷中の瑞輪寺にあります。
『徳川実紀』『新編武蔵風土記稿』などに、この杓子のお祖師様のお寺の事が出ています。それによりますと、杓子のお寺は、この寺の本寺である、今の谷中の天台宗・長耀山天王寺、昔の日蓮宗感応寺ということになっているものが多いようです。
それによりますと、この地の郷士関善左衛門長耀の妻が、難産で苦しんでいたところ、たまたま、お通りになられた宗祖聖人が、杓子にお題目をお書きになり与えたところ、たちまち玉の様な男の子が生まれた、関家ではこれをお祀りし、大事にしていたが、後に日源上人が今の上野東照宮のあるところに寺を建て、長耀山感応寺としたとあります。
その後、感応寺の九世日長上人の時、寛永寺を建てるためにその地を譲り、今の谷中に移ったといわれております。
この後、感応寺は時の幕府から禁止されていた不受不施悲田派に属していたためお咎めを受け、天台宗に替えられ寺号も替えられてしまいました。当然、末寺である当山もお咎めがありました。
このため杓子のお曼荼羅は、瑞輪寺に預けられたといわれております。後に当山十四世・日性上人の努力で、また元の日蓮宗に戻り、身延山から永聖跡客座席の寺格を受け身延末となりました。こんなわけで、先に挙げた江戸時代には事柄によっては、時の権力である幕府の都合の良いように書かれておりますので、この件に関する記述も必ずしも正確とはいえません。
戦災で当山の古文書が、焼失してしまって残念ですが、先々代からの話によりますと、開山・日嘉上人は、関家で杓子のお曼荼羅をお祀りしてあったお堂が、現在の当山よりもっと東の所にあり、そこにお寺を建て、関家で妙なる事があったので、関妙山とし、善左衛門の善を採って善性寺としたと言われています。
このため杓子のお曼荼羅は、伝説発祥の地・当山にお祀りしてあったが、後に感応寺に移り、これがお咎めを受けた時に瑞輪寺に保管され、当山が身延末に復帰したとき、また当山に戻りました。
しかし、江戸末期になって再び瑞輪寺に移されたと言われております。
しかし、今となっては何が何だか分からない藪の中です。