善性寺を訪れるには、山の手線・京浜東北線・常磐線・京成本線の日暮里駅で下車し徒歩3、4分ほどのところ。改札口を出ると西が谷中霊園。東へ出て線路寄りの道を鶯谷方向へ進めば、しぜんと善性寺の門前に出る。
かつてこの道に沿って音無川が流れ、幽水閑雅の地として知られていたが、昭和初年、日暮里から下は暗渠となってしまった。山門をくぐると正面が本堂。鴟尾をのせた本堂は静かな雰囲気をかもしだす平安期の形式で、心がひきつけられる。
まずご本尊にお参りしよう。
ご本尊にお参りしたい方は庫裡の方に声をかけるといい。ご住職が留守のときでも誰かがかならず案内してくれる。
難産で苦しむ関善左衛門の妻が、日蓮聖人の曼荼羅を記した杓子を授けられると無事出産したことから、宅地内に小宇を創して杓子と祖師像を安置したのがその濫觴という。
その杓子は安産の杓子とよばれ、善性寺は俗に杓子のお祖師さまのお寺として、人びとの信仰を寄せられているが、その杓子は江戸末期に谷中瑞輪寺に移され現在に至っている。
六代将軍・家宣の生母・お保良の方の菩提寺で、寺領百余石の朱印寺である。将軍・家宣や弟の越智松平清武がしばしば参詣に訪れたといい、門前に架かっていた橋を将軍橋とよぶようになったのもこの頃のことだと伝えられている。また、善性寺は越智松平家の代代の葬地でもある。
境内には稲荷社、安土桃山時代の作と伝えられる不二大黒天の石像などが安置され、中西派一刀流四世・中西忠兵衛子正、名横綱・双葉山、石橋湛山の墓などがあり、浜田藩殉難碑、小山内薫の銘による名優・中村又五郎の碑などがある。
開運 隼人稲荷御祭礼
四月の第一土曜・日曜日、桜の花がほころぶ頃に毎年恒例の隼人稲荷御祭礼が開催される。
土曜日には設営と宵宮、日曜日の祭礼当日には善性寺境内にて「鞆絵太鼓」が奉納され、子供には綿菓子、焼きそば、ポップコーン等が無料で配られ金魚すくい等も楽しむ事が出来る。毎年数多くの方が祭礼に参加し、賑わいを見せている。
善性寺門前の団子屋
善性寺の門前から谷中墓地へ上る坂を芋坂といい上野戦争で官軍に敗れた彰義隊が日光へ逃れるため、此の坂を駆け下りてきたと言う。此の坂と王子街道との交差点にあるのが文政二年(1819)に開かれたという藤の木茶屋、土地の名物今の『羽二重団子』だ。
将軍橋
寛文四年(1664)六代将軍徳川家宣の生母、長昌院が葬られて以来将軍家ゆかりの寺となった。
宝永年間(1704〜1711)徳川家宣の弟の松平清武がここに隠楼し家宣のお成りがしばしばあったことから門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名がつけられた。
旧濱田藩殉難諸士碑
浜田藩最後の藩主松平(越智)武聡は徳川慶喜の実弟で、慶応二年(1866)の第二次長州征伐、明治元年(1868)の鳥羽伏見の戦い、さらに上野の彰義隊に、それぞれ幕府側として参加し、いずれも手痛い敗戦を重ねた。
明治十九年(1886)旧浜田藩有志によって、この石碑が建てられたという。
本賢院従四位下行侍従弘毅斎墓
甲斐府中綱重の二男清武の墓、越智松平家は甲府宰相徳川綱重の二男越智清武(美濃高須義建の三男兄は六代将軍家宣)を祖とする。
列士彰義隊 亀田氏・岸氏之碑
上野戦争で多くの彰義隊士が善性寺に逃げ込んだと言われている。
石橋湛山之碑
1884年〜1973年 第55代内閣総理大臣、早稲田大学名誉博士、ジャーナリスト。
実父は身延山久遠寺 第81世法主杉田日布。
双葉山(穐吉定次)之碑
1912年〜1968年、大相撲第35代横綱 身長179センチメートル・体重128キログラム。
昭和13年に横綱を張るや、69連勝の偉業をなした名横綱・双葉山もここ善性寺に眠っている。
(戒名 霊山院殿法篤日定大居士)
中村又五郎之碑
名脇役で知られる歌舞伎役者
1885年〜1920年 俳名は紫琴。